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ジッと見ているうちに目が離せなくなりました。

特に「フジタくん」が就職活動の中で社会とかかわっていくシーンは緊張感があり、監督が描く個人と社会の関係が事実の描写の積み重ねで説得力もありました。私は、人の幸せは「居場所があること」「自己表現が出来ること」にあると思います。この映画の中で確実に幸せなのは「監督」と「風和里の女主人、松本明美さん」でしょう。

そして「愛することは何か?」それは「その人を認めること」という私のもう一つの考えも再確認しました。

(元、毎日放送アナウンサー・現在フリーパーソナリティー)

「家でお菓子を食べることのできる子は、うちには来ない」と駄菓子屋・風和里の店主は語る。学校と家は現在の子どもたちに社会が認めた生存場所だ。では、そこで生きにくい子どもはどうすればいいのだろうか。風和里はそんな子どもたちにとって数少ない居場所だ。子ども・若者たちが風和里にやってくるのは体当たりで率直に付き合ってくれる経営者家族がいるからだ。そこではどんなコミュニケーションがあり、関係が取り結ばれているのかはこの映画を見ればうかがい知ることができる。

朝倉景樹 教育社会学者

     シューレ大学 スタッフ

駄菓子 映画

同じ大阪芸大映像学科で、劇映画はドラマの中に真実が見えるようにと教えている私に、このドキュメンタリー映画は、真実の中にドラマが見えてくることを教えてくれる。

大森一樹 映画監督 

家以上に家のような存在だが、来なくなってしまえばどこで何をしているのかもわからなくなってしまう、風和里とそこを訪れる人々の、温かくはかない関係が描かれている。

カメラが風和里を飛び出して、フジタくんと対峙した時がいちばんスリリングで、夜の町の片隅で、瞳が光るのにどきどきとした。

人というのをわかった気になどなれない、心は誰の手も届かないところにあるのだと思わされる。でもそういう孤独を明美ちゃんが笑いとばしてくれていて、気持ちがよかった。

城間典子 劇場スタッフ

ジッと見ているうちに目が離せなくなりました。

特に「フジタくん」が就職活動の中で社会とかかわっていくシーンは緊張感があり、監督が描く個人と社会の関係が事実の描写の積み重ねで説得力もありました。私は、人の幸せは「居場所があること」「自己表現が出来ること」にあると思います。この映画の中で確実に幸せなのは「監督」と「風和里の女主人、松本明美さん」でしょう。

そして「愛することは何か?」それは「その人を認めること」という私のもう一つの考えも再確認しました。

(元、毎日放送アナウンサー・現在フリーパーソナリティー)

いつも田中は、「そうですね」と気のないテキトーな返事しかしない。そんな田中が、気持ちの入ったテキトーでない映画を作った。

大芸で教えて十年、学生が作った一番のドキュメンタリーだと思った。田中に言うと、やっぱり「そうですね」と言った。

こいつ、バカなのか、賢いのか、分からない。

西岡琢也  脚本家

ジッと見ているうちに目が離せなくなりました。

特に「フジタくん」が就職活動の中で社会とかかわっていくシーンは緊張感があり、監督が描く個人と社会の関係が事実の描写の積み重ねで説得力もありました。私は、人の幸せは「居場所があること」「自己表現が出来ること」にあると思います。この映画の中で確実に幸せなのは「監督」と「風和里の女主人、松本明美さん」でしょう。

そして「愛することは何か?」それは「その人を認めること」という私のもう一つの考えも再確認しました。

      角 淳一

(元、毎日放送アナウンサー・現在フリーパーソナリティー)

いま、社会福祉について学んでいる。その教科書には、児童館、児童相談所、児童養護施設、母子生活支援施設、就労支援施設などが登場するが、駄菓子屋は登場しない。登場しないけれど、駄菓子屋はそのいずれもの役割を少しずつ果たしている。その経営は、税財源を使うのではなく、子どもたちが支払う駄菓子の代金を工面しながら続けられている。その方法は、社会福祉の教科書から学ぶのではなく、子どもたちとの対話から生み出されている。本作は、駄菓子屋がまちの大切な部分を独特な方法で支えていることに気づかせてくれるドキュメンタリーである。

応援コメント

         山崎亮      

                       コミュニティデザイナー

家でもない、学校でもない。​そこは駄菓子屋

​駄菓子

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人と人とのつながりが希薄になった現代へ向けて放つ!

駄菓子屋が帰る場所

 

「人間が生きている意味は人間関係の中にある」精神科医のハリー・スタック・サリヴァンはそう言いました。不登校、ひきこもり、イジメなど、昨今の子供たちを取り巻く環境は厳しさを増している。それらの問題の背景には地域社会、学校、そして家族の崩壊がある。そんな社会の歪みを一身に背負う子供達。そんな彼らと向き合うのは、親でも、先生でもない。駄菓子屋のおばちゃん。この映画は一種の駆け込み寺となった「風和里(ふわり)」で明美さんたちが通ってくる子供たちを、まるで自分の息子のように接し、懸命に向きあう姿と、決して順調とは言えなくても、必死に前を向いて歩もうと、もがく子供たちの姿があります。

今の社会は何か大事なものを捨て去ろうとしているのではないか?風和里での日常はやさしく観るものに問いかける。

 

大阪府富田林市。学校終わりの子供たちの元気な声が溢れる、小さな駄菓子屋「風和里(ふわり)」。そこは松本明美さんとその娘よしえさんが営んでいる。そんな「風和里」に通う子供たちの中には親の離婚やネグレクトなどの家族の問題や学校でのイジメなどに悩み、居場所を求めてやってくる子供たちが少なくない。そんな子供たちを時に厳しく叱り、また時にはまるでお母さんのように優しく接する明美さんとよしえさん。そんな明美さんたちと子供たちとの涙あり、笑いありの交流と成長を描いたドキュメンタリー。

 

 

​予告編

​イントロダクション

​最新情報

サラリーマンが立ち飲み屋で女将に愚痴をこぼし、その日の苦しみや悲しみをリセットして又翌日頑張る・・なぜか子どもたちの姿がそんな姿とかぶって仕方なかった。この映画(ドキュメント)は何の飾りもない、何の演出もない、ただ淡々と流れる日々を描いているだけである。だからこそ子どもたちの本当の姿が見えてくる。学校で生きられない子がなぜここに集まるのか。今忘れられた教育の本当の姿を教師も大人も真剣に考えてほしい秀作である。

今村克彦 教育評論家

城間典子 劇場スタッフ

家以上に家のような存在だが、来なくなってしまえばどこで何をしているのかもわからなくなってしまう、風和里とそこを訪れる人々の、温かくはかない関係が描かれている。

カメラが風和里を飛び出して、フジタくんと対峙した時がいちばんスリリングで、夜の町の片隅で、瞳が光るのにどきどきとした。

人というのをわかった気になどなれない、心は誰の手も届かないところにあるのだと思わされる。でもそういう孤独を明美ちゃんが笑いとばしてくれていて、気持ちがよかった。

「家でお菓子を食べることのできる子は、うちには来ない」と駄菓子屋・風和里の店主は語る。学校と家は現在の子どもたちに社会が認めた生存場所だ。では、そこで生きにくい子どもはどうすればいいのだろうか。風和里はそんな子どもたちにとって数少ない居場所だ。子ども・若者たちが風和里にやってくるのは体当たりで率直に付き合ってくれる経営者家族がいるからだ。そこではどんなコミュニケーションがあり、関係が取り結ばれているのかはこの映画を見ればうかがい知ることができる。

朝倉景樹 教育社会学者

     シューレ大学 スタッフ

                 監督・撮影・編集|田中健太​  制作指導|原一男 小林佐智子 

   

   制作|大内雅人 賀村航大 整音|中村未来 平木篤  主題歌|ばばろあ「風和里の唄」

​   音楽|角田健輔 フライヤーデザイン|大上健人 杉原さや 予告編制作|中島丈晴 ホームページ制作|小川泰寛   

   題字|松本よしえ タイトル制作|今西健 宮崎祐介 小川泰寛

    撮影応援|賀村航大 古賀春花 徳永慶生 中村未来 夏梅北斗 藤原貴大 桝田詢平 阿部周一 

   制作応援|小川泰寛 撮影協力|大阪芸術大学研究室 松屋町商店街の皆様 たなかのからあげ きしたこ 

​イントロダクション

​家でもない、学校でもない。そこは駄菓子屋

「人間が生きている意味は人間関係の中にある」精神科医のハリー・スタック・サリヴァンはそう言いました。不登校、ひきこもり、イジメなど、昨今の子供たちを取り巻く環境は厳しさを増している。それらの問題の背景には地域社会、学校、そして家族の崩壊がある。そんな社会の歪みを一身に背負う子供達。そんな彼らと向き合うのは、親でも、先生でもない。駄菓子屋のおばちゃん。この映画は一種の駆け込み寺となった「風和里(ふわり)」で明美さんたちが通ってくる子供たちを、まるで自分の息子のように接し、懸命に向きあう姿と、決して順調とは言えなくても、必死に前を向いて歩もうと、もがく子供たちの姿があります。

今の社会は何か大事なものを捨て去ろうとしているのではないか?風和里での日常はやさしく観るものに問いかける。

​駄菓子屋が、ぼくの帰る場所

大阪府富田林市。学校終わりの子供たちの元気な声が溢れる、小さな駄菓子屋「風和里(ふわり)」。そこは松本明美さんとその娘よしえさんが営んでいる。

そんな「風和里」に通う子供たちの中には親の離婚やネグレクトなどの家族の問題や学校でのイジメなどに悩み、居場所を求めてやってくる子供たちが少なくない。

そんな子供たちを時に厳しく叱り、また時にはまるでお母さんのように優しく接する明美さんとよしえさん。

そんな明美さんたちと子供たちとの涙あり、笑いありの交流と成長を描いたドキュメンタリー。

 

 

​※敬称略 五十音順

応援コメント

朝倉景樹 教育社会学者・シューレ大学 スタッフ

「家でお菓子を食べることのできる子は、うちには来ない」と駄菓子屋・風和里の店主は語る。学校と家は現在の子どもたちに社会が認めた生存場所だ。では、そこで生きにくい子どもはどうすればいいのだろうか。風和里はそんな子どもたちにとって数少ない居場所だ。子ども・若者たちが風和里にやってくるのは体当たりで率直に付き合ってくれる経営者家族がいるからだ。そこではどんなコミュニケーションがあり、関係が取り結ばれているのかはこの映画を見ればうかがい知ることができる。

今村克彦 教育評論家

サラリーマンが立ち飲み屋で女将に愚痴をこぼし、その日の苦しみや悲しみをリセットして又翌日頑張る・・なぜか子どもたちの姿がそんな姿とかぶって仕方なかった。この映画(ドキュメント)は何の飾りもない、何の演出もない、ただ淡々と流れる日々を描いているだけである。だからこそ子どもたちの本当の姿が見えてくる。学校で生きられない子がなぜここに集まるのか。今忘れられた教育の本当の姿を教師も大人も真剣に考えてほしい秀作である。

大森一樹 映画監督 

同じ大阪芸大映像学科で、劇映画はドラマの中に真実が見えるようにと教えている私に、このドキュメンタリー映画は、真実の中にドラマが見えてくることを教えてくれる。

城間典子 劇場スタッフ

家以上に家のような存在だが、来なくなってしまえばどこで何をしているのかもわからなくなってしまう、風和里とそこを訪れる人々の、温かくはかない関係が描かれている。

カメラが風和里を飛び出して、フジタくんと対峙した時がいちばんスリリングで、夜の町の片隅で、瞳が光るのにどきどきとした。

人というのをわかった気になどなれない、心は誰の手も届かないところにあるのだと思わされる。でもそういう孤独を明美ちゃんが笑いとばしてくれていて、気持ちがよかった。

      角 淳一

(元、毎日放送アナウンサー・現在フリーパーソナリティー)

ジッと見ているうちに目が離せなくなりました。

特に「フジタくん」が就職活動の中で社会とかかわっていくシーンは緊張感があり、監督が描く個人と社会の関係が事実の描写の積み重ねで説得力もありました。私は、人の幸せは「居場所があること」「自己表現が出来ること」にあると思います。この映画の中で確実に幸せなのは「監督」と「風和里の女主人、松本明美さん」でしょう。

そして「愛することは何か?」それは「その人を認めること」という私のもう一つの考えも再確認しました。

いつも田中は、「そうですね」と気のないテキトーな返事しかしない。そんな田中が、気持ちの入ったテキトーでない映画を作った。

大芸で教えて十年、学生が作った一番のドキュメンタリーだと思った。田中に言うと、やっぱり「そうですね」と言った。

こいつ、バカなのか、賢いのか、分からない。

西岡琢也  脚本家

山崎亮      コミュニティデザイナー

いま、社会福祉について学んでいる。その教科書には、児童館、児童相談所、児童養護施設、母子生活支援施設、就労支援施設などが登場するが、駄菓子屋は登場しない。登場しないけれど、駄菓子屋はそのいずれもの役割を少しずつ果たしている。その経営は、税財源を使うのではなく、子どもたちが支払う駄菓子の代金を工面しながら続けられている。その方法は、社会福祉の教科書から学ぶのではなく、子どもたちとの対話から生み出されている。本作は、駄菓子屋がまちの大切な部分を独特な方法で支えていることに気づかせてくれるドキュメンタリーである。

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